「死ぬのはいつも他人ばかり」
" Besides, it's always the others who die "
| Aug.23-Sept.16,2013 | at float & AWOBA SOH | director : Zushi Masahito |
私は死ぬのが怖いです。
小さい頃から死の恐怖に怯え、毎晩寝る前には大地震や戦争が起こらないことを祈っていました。
しかし私を本当に脅かしていたのは、明日、もしかしたら今日死ぬかもしれないという「刹那の死」に対する恐怖ではなく、いずれは必ず死ぬという「約束された死」への恐怖でした。
50歳にしろ、80歳にしろ、100歳にしろ、200歳にしろ、いずれ自分は死ぬらしいのです。
生まれたときから死刑宣告を受け生きてきました。
私は死なないはずです。
私はこの世界という物語の主人公なのだから死なないのです。そう思っていました。
人は皆死んでいくらしいのですが、私が死ぬわけはありません。
私が死んだら物語は終わってしまうのですから。その後の世界は誰が見るのでしょうか。そう思っていました。
死はエンタテイメントだと考えています。私は本当の死を見たことがありません。
死はスクリーンやテレビ画面の中、小説の文字の並びや漫画のコマの中にしかありません。そこでは死は常にドラマチックです。
しかし現実の死はいつも事後的で事務的です。死はフィクションの中だけのものなのかもしれません。
そもそも私は死んだことがないのです。これから先も私は死なない限り死にません。
他者の死に対するリアリティのなさ、そして自分自身の死への極端なまでの恐怖とそれが生み出した幻想=自分の死に対するリアリティのなさ。
これらの要素を反芻し膨張していったとき、その諸々をコンパクトに凝縮し、また多要素を含みながら驚くほど静かに、一種サディスティックな心地良さを以て語りかけてきたのが深夜のコンビニの前にぶら下がった電撃殺虫器でした。
メディアを通して入ってくる他者の死とはまさにその虫たちの死でした。
バチバチと音をたてて死んでいく様に耳を澄ませば今ここで一つの命が終わったことを認識できます。
しかし二度三度と聞いているうちに一度目の死を思い出すことはできないし、またそこから去ってしまえばその場所での虫たちの死を思い出すこともありません。
遠い過去の話ではなく、これから先もそこでは数えきれない数の死が起こるにもかかわらずです。
他人とは自分です。私と同じようにあなたも死に、私もあなたと同じように死ぬらしいのです。
まさか!! されど、死ぬのはいつも他人ばかりなのです。【展覧会キャプションより】
・関連イベント
オープニングイベント 「飛んで火に入る夏の鍋」
Opning Event " A fool hunts for NABE / Summer NABE plunge into fire of their own accord "
千年猛暑といわれた2013年の夏。小さなギャラリーを閉め切り灼熱の鍋料理を振る舞う。
極限空間での食が生むコミュニケーション。







撮影:図師雅人 他
Sound Live " Funeral March "
サウンドアーティストを招いてのライヴイベント。
三原は電撃殺虫器を用いた装置「O-cutollotine(Insect-O-Cutor+Guillotine)」のデモンストレーション。
後藤天は回文を用いた音響詩の朗読と、三原の本展覧会用ステイトメントを音に変換した曲を披露した。
佐藤実(m/s,SASW)は自作の重低音ビートマシン「SexGodSex」の実演をベースとし、また明滅する蛍光管の光をソーラーパネルで拾い音に変換、規則性の中に偶然性のあるパフォーマンスを行なった。
三原回:「O-cutollotine」
後藤天:「回文アキュミレーション」
:「"死ぬのはいつも他人ばかり"のコンセプトテキストによる弦楽二重奏と鐘のための発音音楽(PCによるリアライズ)」
佐藤実(m/s,SASW):「SexGodSex」
![]() 三原回 |
![]() 後藤天 |
![]() 後藤天 |
![]() 佐藤実(m/s,SASW) |
![]() |
撮影:星田大輔 他
BAR Event " Others BAR "
電撃殺虫器の青い光がムーディに輝く夜のあをば荘での一夜限りのBARイベント。
入れかわり立ちかわり、様々な人々と夜通しお酒を飲み交す。




Closing Talk " Artist and Death "
アーティストとして如何に死ぬか。アーティストの死とは。死後作品は如何に語られるか。
各々の活動を振り返りながらそれらについての話をする。
トークゲスト:原田裕規




