《flow of Timeless》

「中之条ビエンナーレ2011」 (2011.08/20-10/02) 中之条町
" NAKANOJO BIENNALE 2011 " (Aug.20-Oct.02,2011) at Nakanojo Town

水・点滴チューブ・貯水タンク・ダクトパイプ、他 / 2011


廃線のホッパー跡の地面にダクトパイプを埋め込み、そこへ天井部分より水滴を垂らした。最小限の行為によって「場」への関与を狙う。

鉄鉱石運搬のために開通した旧長野原線は昭和46年にその役目を終え、現在ひっそりと佇むコンクリートの建造物は当時の終着駅であった太子駅のホッパーの名残であるという。
しかし私を含めこういった歴史に疎い人々にも、その佇まいの圧倒的な説得力によって「時の流れ」という事実だけは読み取れるだろうし、またこの作用がこれから先も変わらず続いていくことは自明である。
今回私はそんな強大な力の渦中にある空間に少しだけ手を加えてみた。
これは滴る水という動的な要素により、長い歴史の中のほんの一瞬の動きをトリミングし、意識することによって逆説的に時間を停止させる試みである。【イベントガイドブックより】

【シリーズ「Eternal Motion」より】
人工的・都市的な風景をトリミングし、閉鎖的な空間にインストールする。時間の流れの中で消費し摩耗していくはずの風景は、フレーミングされることでその流れから解放される。
これらのインスタレーション作品には時間が存在しない。ゆっくりと回転を続ける換気扇や、切れかけたように明滅を繰り返す蛍光灯、大音量で流れ続ける低周波の持続音などの単純な運動こそあるが、人工的に演出された平面的、回転的な運動には始まりと終わりはなく、作品空間は鑑賞者が訪れる遥か以前よりそこに存在し、鑑賞者が去った後も永遠にそこに存在し続けることを想起させる。
絵画は永遠のメタファーである。物理的な破壊がない限り、その景色が四角いフレーム内におさまり続けることを約束されている。永遠に憧れる権力者や画家は度々その四角い王国に自らの分身を写してきた。この空間は現実の時間軸の中で最も絵画的であろうとする試みである。

なお、”永遠に死なないということへの憧れ、そこから生まれる距離”というコンセプトは後の「死ぬのはいつも他人ばかり」シリーズへ、“永遠という時間をトリミングする試み”というコンセプトは「INTERMISSION」シリーズへとそれぞれ派生していく。

撮影:坂本良介

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