《INTERMISSION》シリーズ
三原回 個展「INTERMISSION: or The Contemporary Prometheus」 (2023.9/6-20) WATOWA GALLERY / THE BOX TOKYO、他Oil on Canvas / 2019-2023
長編映画の中の INTERMISSION(休憩時間)表示を描くシリーズ。
絵画の鑑賞体験は日常の時間軸に於ける INTERMISSION(休止・中断)であると仮定する。
そこでは時間の幅の制約も、特定の日時の指定もなく、その時間が一瞬であることも永遠であることも認められる。
《INTERMISSION》を展覧会場に掛ければ他の作品たちの間の余白として機能し、プライベートな空間では日々のルーティンから解放された自分だけの時間を演出する。
《INTERMISSION》は、この言わば絵画としての当たり前の性質を記号化して再度意識する試みである。
また鑑賞者はモチーフとなる映画の内容により恣意的、且つ社会的に役割を読み取り、与えることもできる。
例えば、映画史上の重要な作品でありながら、現在の人道的価値に照らし合わせると問題作でもあるD.W.グリフィスの「國民の創生」は、2つの良家が南北戦争によって引き裂かれ没落していく物語から始まり、INTERMISSION を挿み後半は傍若無人に振る舞う黒人や為政者から“正しい白人” を救いだすKKK の姿が英雄として描かれる。立場によって相対的である正義、彼らが絶対的であることを疑わない悪。
現在も未来も本質は変わらず、その前半(過去)と後半(未来)との間に位置する“いま”のメタファーとしての役割を読み取ることもできるだろう。
installation view
これは映画ではない。絵画である。──「退屈」と「遅延」の美学
三原回の《INTERMISSION》シリーズは、かつて長編映画の休憩時間に表示されていた画面を絵画にした作品である。ただし「絵画」というのは形式であって本質ではない。素材ないし技法としては、キャンバスに油彩といった「メディウム」よりも「絵画」というメディアを利用した作品と言うほうが適切かもしれない。ぶ厚い支持体や強い光沢、ローラーや筆の粗雑な跡など、物質としての存在感を生々しく誇張する方法を採っており、けっして洗練された絵ではない。もっと単純に、これは絵画なのかではなくこれは絵なのかと問うなら、おそらく答えは否である。
ここでいう「絵画」というのは頑丈なタブローのことであり、それ自体は媒体と同一でない「映画」と対極にある。「映画」に比べて「絵画」の寿命は遥かに長い。ジャンルとして「絵画」の「死」が謳われたこともあったが、むしろ現在では永続性を連想させるメディアでもある。一方で、記録媒体や再生装置が古くなって使えなくなれば、そもそも「再生」──つまり生きかえらせること──が難しくなってしまう「映画」は、「終わり」があるという意味でも「死」がつきまとっている。
映画を中断するインターミッションは「終わり」の遅延であり、延命というわけではないにせよ「死」を遅らせることができる。単なる「一時停止」で運命づけられた「死」を免れることはできない。止まっている画面が即ち「絵画」なのではないが、「絵画」という永続的な形式にうつすことで「映画」を「死なない」ものにできるとしたら、永遠のINTERMISSIONは「映画」ではなく「絵画」であると言える。
もし私たちが「不老不死」だったなら、永遠に年をとることはなく、そもそも時の流れというような観念も生まれなかったかもしれない。しかし、自分自身もまわりのものも静止しているのでなければ、時が止まっているのとは違う。「映画」と同様、死を運命づけられた私たちの人生も、いつかは訪れる「終わり」に向かっているもので、光陰如箭ではないが、どうも時は矢のようにまっすぐ一方向に進むと思われがちである。しかし、「絵画」のもつ永遠の時間とは、流れるでもなく止まっているでもなく、たとえば──アーティストの名のように──ぐるぐる回りながら遅々として進まないというような「遅さ」のことかもしれない。
あるいは「絵画」とは──絵を見るというのは──そういうことなのだと教えるのが三原回の作品なのかもしれない。「絵画」は私たちよりも遥かに長生きである。三原は自らの「絵画」に対する憧憬を「不老不死」の希求という人類的なテーマと重ねあわせ、時間の遅延を「絵画」に結びつけているが、これまでの制作でも、一定の運動を続ける機械の設置によって、展覧会に永遠の時間を導入しようとしてきた。アーティストのアイコンにもなって
いる《Fan》を中心とした「Eternal Motion」シリーズや、デュシャンの墓碑銘に因んだ《死ぬのはいつも他人ばかり》という作品では、ただ回転し続ける換気扇や断続的に電撃を放つ殺虫灯などが、そのほかには特に何も起こらない「退屈」な時間を現実に来していた。
日常生活を長い映画に喩えるなら、人生にも休憩時間が必要である。私たちは毎日を「退屈」しないように何かと忙しく生きているが、絵を見る時間とは、そんな日々のあいまに「暇」をとることに他ならない。そして、私たちにとって芸術鑑賞は非日常な時間というより生活の一部である。タブローとしての「絵画」は、持ち運びができ、自宅に飾ることもできる。それは決して日常的な時間を否定するものではなく、むしろ共に存在し、私たちが生きる空間や時間を変容させるものだと言える。
文章ほど退屈なものもないので、ひとまずは筆を擱かなければならないが、「終わり」のない作品に対する註釈もまた「続く」──NOT The End
飯盛希(美術批評)