《1.風景の形骸 / 2.あの人も求められるのだから》
" 1.The Remains of Landscape / 2.Because That Person is Needed "

「飛んで死にいる彼は誰れの」 (2015.12/30-2016.01/17) あをば荘・ドマトトコ・float 同時開催
" A Bug Hunts for Death in The Dusk " (Dec.30,2015-Jan.17,2016) at AWOBA SOH , Domatotoko & float


映像(QuickTime), 9分3秒 (ループ)・ブラウン管テレビ・メディアプレーヤー・水槽・魚・木材・照明、他 / 2015


「TRANS ARTS TOKYO 2015」出展作品《1.風景の形骸 / 2.あの人も求められるのだから》の再制作。
死との距離を可視化するための装置。
壁面に開いた穴を覗くと、水槽を泳ぐ生きた魚越しに波に打ち上げられた魚の死体の映像が見える。
生きているもの越しに死んでいるものを見るという単純な構造ではあるが、穴を覗くいう手間のかかる行為という第一のフィルター、水槽のガラス・水というフィルター、そして映し出された死は映像であり当然リアルではない。
また、ここで扱われる生も死も魚という直接的に自己投影をしにくい存在であり、また一層隔たりができることになる。
メディアを仲介したときに生じる距離(または近さ)から純粋な死とは、身体性を伴った生について考察する。

会場設置ステイトメント:

「1人を殺せば殺人者だが、100 万人を殺せば英雄になる」 チャールズ・チャップリン

「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計に過ぎない」 アドルフ・アイヒマン

死は常に何ものかのための犠牲であろうとする。
死が個人のドラマから引き離され、情報となったとき、それはさらに加速する。
しかし、情報化が針の振り切れるほどの速度に達したとき、死は犠牲としての死から解放され、純粋な死となるのだろうか。

撮影:川原卓也

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